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2012年 01月 18日
![]() 年が明けてだいぶ経つけれど、今年の抱負というか目標というか、漠然と考えていることがある。 年末年始に京都に行った。 智積院の長谷川等伯、九蔵を久しぶりに見た。 高山寺、神護寺の佇まいは変わらずしっとりとした風格があったし、はじめて行った伏見稲荷では「特別の場所」の空気感のなかトレッキングを楽しんだ。 今回僕が意識して観たかったのは、借景の庭。 正伝寺、円通寺、それから實相院でそれぞれ趣向を凝らした庭とその向こうに見える比叡山のシルエットを観た。 セザンヌの描いたサントビクトワール山によく似たシルエットはいにしえ人にとっても゙おもしろい゛景色だったというのは今観ても納得がゆく。 「借景」というのは仕掛けとして考えると分かりすぎるくらいよく分かるけれど、実際観てみると、むしろなんだかとてもミステリアスなものに向き合ったような実感がある。 当たり前と思えるものであっても、実際に存在するという現実自体が謎めいていた。 作業の結果作り込まれた部分以上に、作り手の行為が及ばない時間と空間という要素が果たす効果が大きい。 京都という場所では今でも伝統と先進がパラレルに現在進行形で共存していて、しばらくそこに居るといやがおうでもインスピレーションが刺激される。 さて、僕が何が今気になるかというと、借景の庭や特別な場所の当たり前の空気感が持つ刺激的な要素。 絵でいえば、絵の表面ではなくて作品全体から醸し出すその絵の本質。 特に、具体的に描いてなくても主張としてはっきりと存在するイメージ。 要するにあまり描きすぎず、描いていないからこそ強いインパクトがあるような絵。 そんな絵を描きたい。 と、新しい年のはじめに思う次第、、、。 2011年 11月 23日
![]() 12月3日(土)~11日(日) AM10:00~PM5:30 高崎・広瀬画廊 〒370-0862 高崎市片岡町3-23-4 / TEL 027-326-7821 すでに案内状を投函しましたが、「来てないぞ~ウチにもよこせ~・・・」という方はメッセージまたはメールにて御住所を明記のうえ御請求下さい。すぐに郵送します。 ただ今 制作・準備・・・最終コーナー・・・やばい!転びそう~! がんばります! 2011年 08月 03日
7月30日~8月1日 石巻で行われた川開き祭り・灯篭流しに参加してきました。
![]() 4月に描いたこのスケッチは、石巻市内の真ん中・日和山から旧北上川の上流方向を見たもの。 大きな中州は「中瀬」と呼ばれていて、白くて丸い建物は「石ノ森漫画館」。 大津波はこの川を逆流して両岸の街をのみ込んだ。 震災直後、全国あちこちで予定されていたいろんなイベントが自粛ムードのなか、被災地では厳しい状況にあってもお祭りやイベントを決行しようという活力があった。 石巻でも毎年行われてきた川開き祭りの実施が早い段階で決まっていた。 今回は犠牲者に捧げる鎮魂の想いを、10000個の灯篭に託してこの川に流すことになった。 石巻に駐留中のほとんどのボランティア・NPO団体が参加して執り行ったこのイベント。我が家は夫婦でそれぞれカヌーに乗って川に出て、カタマラン(カヌーを横に二艇繋げた双胴船)の誘導や撮影隊のサポートの仕事をさせてもらった。 イベントは大成功。僕たちは特等席から幽玄な灯篭の流れを見ることができた。 僕たちは当日の仕事に参加しただけだが、大きな成果を得るためには実際には準備段階の仕事がほとんどで、長期にわたって活動を続けているボランティアの仲間達には本当に頭が下がる。 30日夜。新潟・福島の大雨水害の被害状況の一報を受けて、僕たちのベースからも4トントラックに機材を満載した先発隊が新潟三条に向った。 「困っている人がいれば必ず助ける。」 そういう人たちが実際に居て、今も現実に動いている事を忘れてはいけないと思う。 ![]() 毎回石巻に行くときに通る仙台南部道路から北部道路にかけて、左右に広がる風景がある。 震災当日、テレビ画面でよく流れた仙台空港周辺・名取川河口付近。 海岸の松並木をなぎ倒した津波が、家や車をのみこんでゆく映像はあまりに悲惨だった。 関東方面から車で被災地に向うとまず眼にするのがここ風景で、津波を被ったエリアと無事だったエリアのコントラストが無情で強烈だった。 僕も初めて一面の泥と瓦礫の光景を見たとき、言葉を失った。 この場所に、この先、人の生活はあり得ないと感じた。 4月以降、間を空けて被災地に行くたび、少しづつ好転する状況が感じられる一方で、詳しく見れば見るほど見えてくる甚大な被害状況に、復興の道程の遠さを思うことしきりだった。 今回、7月30日朝、久しぶりに名取川河口付近の風景を見て驚いた。 一面の泥に覆われた世界に草が芽吹いて、そこは緑の草原(?)と化していた。 所々に瓦礫の残骸が見えるけれど、無彩色だった世界に色が復活していた。 津波を被っていないエリアの田んぼや家々の眺めと見分けが付かないくらいだ。 植物の生きる力はすさまじく、ここならやがて人の生活も復活できる・・・と、脳天気に感じて、腹の底のほうで何かがストンと着地したような気がした。 草が生えたのだから人間だって生きて行ける。 2011年 06月 13日
![]() 東日本大震災発生から三ヶ月が過ぎた。 被災地では様々なニーズに対応した支援活動が展開されている。 昨年(大阪・道頓堀に100艇のカヌーを浮かべる)・一昨年(メイントラディショナル・パドル製作ワークショップin琵琶湖)と、これまで二度の“カヌーデイ”イベントを開催してきた「はからめ」を中心に、被災地石巻・牡鹿半島小渕浜でカヌーによる港湾内の瓦礫撤去・漁具回収などの支援活動“カヌーデイin石巻”が行われた。 http://www.canoeday.com/ http://40010.net/modules/tinyd4/index.php?id=9 「はからめ」と「四万十塾」を基点に、カヌーイストの輪がマンパワーとなり結集。 カヌーが復興のために働いた。 *************** 5日間の作業終了にあたり、地元漁協の組合長さんの言葉が印象深い。 組合長: 「まず皆さんにお詫びしたい。。。『カヌーごときで何ができると思ったが・・・』、これだけ片付けて頂いて本当にありがとうございました。防波堤の上に積み上がった瓦礫を見て、我々の気持ちはいつも沈んでいました。まだまだ復興には時間がかかりますが大きな希望となりました事を心から感謝致します。 また皆さん、ぜひこの地に足を運んで下さい。」 (活動に参加した友人のレポより) *************** 子供の頃、もう消えてしまいそうな記憶の中に「はたらくくるま」という絵本がある。 子供心に、人のために働いている姿がカッコよくて、ダンプカーやパトカー、消防車やタンクローリー・・・などの絵を新聞の折り込み広告の裏に描いて遊んだ。 今、僕が教えている子供の絵画教室でも、男の子には圧倒的人気の“はたらく車”。 人のために働く車はいつの世も子供たちのヒーローだ。 ![]() 今回の復興支援活動で、カヌーは単なる遊び道具(漁協組合長さんはじめ一般の多くの人たちの認識)から、はたらく船として認められたことになる。(嬉!) もとを辿れば、ネイティブアメリカンの人たちの生活道具だったのだから、今回の“はたらくカヌー”はカヌーにとってみれば本来の姿ということになるのかな・・・? いや・・・もしそうだとしても、何より道具を使う“人の心”が、本来あるべき姿をしていることが尊い。 カヌーには、そういう“人の心”を集めて繋ぎあわせる力が備わっている事は間違いない。 ![]() 命の源である「水」をまん中に、本当のことを見つめてゆける生活。 そんな生活のあり方を再認識するチャンスでもある今の状況。 ただの遊び道具としてだけではなくて、カヌーに乗って“本当のこと”を見つける旅ができたら・・・きっと、もっともっとカヌーが楽しくなるだろう。 2011年 05月 11日
![]() 石巻の日和山から見渡した被災地の風景。 「壊滅状態」というのはこのことを言うのだと、大袈裟でなく目の前の現実にあてはまることに驚愕した。 僕は、この光景を見たときに、神戸や新潟の震災復興での経験が活かしきれないほどの甚大な被害だというけれど、ならば戦後復興をやり遂げたときの覚悟で取り組まなければならないのだ・・・と漠然と想った。 65年前、この国は300万の人命を失い、焦土と化した国土を、どん底から復興させた経験がある。 自分の親達が歩んだその道半ばの時代に生まれ、やがてGNP世界第二位だと、誇らしげに豊かさを享受できる時代をすごしてきた。 けれども、本当の豊かさってこれとは違うんじゃないのか?などと、つねに思いつつ、物は豊かだけれどなんだか心は満ち足りず、殺伐とした空気が滞留したような閉塞感のなか、悶々と日々を過ごしてきた。 それでも、限られた“自由”のなかで、それぞれ夢や希望を持って、みんな勝手気ままにモゴモゴ蠢いていた。 だけど、すぐにダメな理由がたくさん溢れてきて、前に進もうにも進むべき方向が見つからず、波間にゆらゆら漂う大きな船のようだったついこのあいだまでのこの国。 ほんの二ヶ月前までは、そんな感じだった。 ************ 連休に山口~広島~京都を旅行した。 広島の原爆ドームと平和記念資料館で見た原爆を投下された直後のジオラマは石巻の日和山から見た光景と否応なく重なった。 原爆による被爆の資料はそのまま福島で現在進行形であり、“昔の出来事”だと見る事はできない。 それでも、平和記念公園の佇まいは今あくまでも平和だった。 山口県立美術館では、ずっと見たかった香月泰男のシベリヤシリーズ全作をみた。 中国戦線への兵役・戦後のシベリア抑留から帰国までの体験を作品化したシリーズ・全57作品を一度に見ることができた。 一個人の辿った戦争という出来事にまつわる生々しい軌跡が、硬質なマチエールのなかに美しく昇華されて、絵描きのできる仕事としてこれほど高水準の仕事は他にあまりない。 そして、幕末を彩った志士達の息吹に触れたいとおもい萩にも行った。 吉田松陰・高杉晋作・桂小五郎・伊藤博文・山県有朋・・・おおまかに150年前、幕府のある江戸から遠く離れた外様大名・毛利氏の治めるこの地から、新しい時代をまさしく命がけで拓こうとした男達がいた。 志の気高さを留める白壁と夏みかんのオレンジ色の向こうに清澄な空と海があった。 (夏みかん栽培は明治以後、失業した武士達の収入源としてはじめられたそうだ) ここのところゴールデンウィークには毎年立ち寄る京都では、「龍安寺の石庭」をはじめて見た。 あまりに有名な、そしてあまりにそっけないこの庭の石たちは何を語るのか? 一つずつの石を見ても、石と石の隙間を見ても、周りを取り囲む油土塀の抽象画面を見ても、どこにも焦点はなくて、そこにある「空間の広がり」と向き合うしかない・・・けっきょく謎めいたままだからとてつもなく面白い。 「自分で考えろ・・・」と、部分部分にはなにも答えなど無く、目の前の無限の空間の広がりと向き合う勇気を持てと・・・石庭は語っていた。 ********** 唐突だけれど、「憲法第9条」というのがある。 戦後、新たに作った憲法に僕たちの先代が定めた「戦争をしないという誓い」。 世界に向けて、この国が示した進むべき道を照らす指針だ。 時として、一部のイデオロギーから全面的に賛同はされないこともあったけれど、日本が世界に向けて独自のスタンスとしてはっきりと示す事のできるこの国の“宝”だと想う。 戦後復興に向うとき「もう決して戦争をしない」という誓いを立てたように、今、この国が持たなければならない誓いはなんだろう? 未来を切開くために、これからどこに向かって進むべきか? 目の前の現実のなかにある小さい部分のダメな理由を数え上げるのは容易い。 この状況の中で、いままでの価値観という既存の焦点に頼るのではなく、勇気を出して漠とした空間の広がりに向き合わなければならない。 気高い志を持たなければならない。 石巻~山口・萩~広島~京都・・・を旅して、知っている歴史を振り返りつつそんな事を考えた。 2011年 04月 11日
![]() 先週4月5日~8日・石巻に行って来た。 すでに震災直後からボランティアとして被災地入りしている友人達に加わって微力ながら活動に参加してきた。 四万十塾が中心になって行っている炊き出しの手伝い・炊き出しスペースの整備・避難所のキッズルームでお絵描きのワークショップ・牡鹿半島方面の情報収集・直接知り合った在宅被災者の人たちへの物資供給など比較的自由に活動させてもらった。 テレビや友人達の報告で知っていたのとおなじ光景を目の当たりにして「あぁ・・・やっぱり本当に起きてしまったんだ・・・」と思ったと同時に、あまりに悲惨な情景・状況をどう捉えてバランスを取ればよいのか分からない。 地球の表皮・地殻が大きくずれてしまったエネルギーのあまりの強大さと、それによって破壊された街の景色・奪われた命のあまりのはかなさとのアンバランス。 そこには「人間と自然の共存」などという一方的な思い上がりもキッパリと拒絶されてしまった厳しさが横たわっている。 それでも痛みを共有したいという日本中・世界中の人の想いが被災地に集まる。 何かできる事はないか?・・・という想いが被災地の磁力に引き寄せられる。 ヒトやお金はもちろん、食料や生活物資、あるいは様々なメッセージという形になったたくさんの“想い”が勢い良く集まっている。 発せられた“想い”の行き着く場所はどこか? 各地から集められた支援物資はいったん自衛隊や行政・支援団体などがそれぞれ管理する集積場所に集められてから各避難所や必要としている被災者の元に届けられる。・・・・ことになっている。 が、効率よく行き着くべき場所に行き渡らない状況が問題になっている。 刻々と変化しながら把握されないままの被災地域の細部の状況。 一方で被災地まで届いていながら倉庫に山積みとなった支援物資。 実際に賞味期限切れになったアンパンが未開封箱詰めのまま大量に捨てられているのを見た。 たまたま犬を連れて歩いていたので声を掛けたK野さんは、三家族で知人のAさん宅に避難しているという。 話をしていると遠慮がちに「ゴム手袋と長靴が欲しい・・・」と僕に訴えた。 翌日物資倉庫から探して届けると、「できれば米と釘、カセットコンロもあると助かる・・・」と言う。 「他にも必要な物があれば何でも言って下さい。探してみますから・・・。」と僕が言うと、一緒に避難生活をしている人たちの要望を書き出してくれた。 女性用長靴・石灰・懐中電灯・乾電池・ろうそく・ドッグフード・大人用オムツ・石鹸・歯ブラシ・歯磨き粉・・・ 「すぐに探してみます。」と言うと、 「本当にありがたい。でも、他にももっとたいへんな人がたくさん居るんだから自分達だけにこんなにしてもらっては申し訳ない・・・。」 こんな状況がきっといたるところにあるはずだ。 “想い”は行き着くべき場所に届いてはじめて報われる。 なぜ、行き場をなくした“想い”が宙ぶらりんになってしまうのか? それは集まった“想い”を受け入れる体制が充分に機能していないからなのだが、本来それを担うべき行政や物流の仕組みまでもが今回は大きく破壊されてしまった。 自宅や知人宅など、大きな避難所以外で生活している人たちの実態が正確に把握されていない状況にある。 同時に、そういう状況にある人たちが大きな避難所に居ない自分達は物資や炊き出しなどの支援を受けられないのではないかと勘違いしているのも事実。 僕が体験した石巻の市内でさえそうなのだから、郊外の小さな集落ではもっと深刻なはずだろう。 岩手県内の被災地の状況はもっと厳しいと聞いた。 小さな情報・要望を吸い上げて、それに応えるというのも小回りの利くボランティアの重要な役割となっている。 きめの細かいマンパワーがまだまだ必要な状況なのだ。 残念ながら僕たちは8日に石巻を離れた。 K野さん達への今後の物資の供給はK野さん達が避難しているAさん宅の近く、湊中学校での炊き出しチームのリーダーであるゴンタに引き継いでお願いしてきた。 復興への長い道のりがこれからも続いてゆく。 2011年 03月 20日
![]() 計画停電三日目、わが町を含む第5グループの停電はPM6:30~の予定。 予定より少し遅れて我が家でもテレビと照明がプツッと消えた。 用意していたランタンを灯して、ラジオのローカルFMを聞きながらいつもより少し早い夕食のテーブルを囲んだ。 キャンプの夜とおなじ気分で、なんだか嬉しくもあるのはこの非常時に不謹慎・・・いやいやそんなことはない、この状況を素直に感じて過ごさなければ・・・。 目が慣れてしまえば充分な明るさだし、いつもと違うという事は“新鮮だ”ということでもあり・・・やっぱりキャンプの夜と同じで空気が濃密に思える。 二階の窓から外を見ると、めったに見る事ができないすっかり灯りの消えた市街地の上空に、ハッとするような明るさの月がポッカリ出ていた。 しみじみきれいだと思った。 夜の闇は明るい照明の中で忘れてしまっていたイマジネーションを呼び覚ます。 おなじ月を見ている人がどれだけいるか?と思うと、こんな夜も悪くない。 2011年 03月 18日
![]() 大震災の発生から一週間が経つ。 3月11日当日、僕のいる群馬県でも震度5強。 「・・・!!!・・・えらい事になった・・・」と、まるで生きもののように飛び跳ねる駐車場の車を見ながら思った。 その後のテレビ報道から知る津波被害の惨状・制御不能になった原発・ライフラインや物流の滞り・避難所の人たちの大きな悲しみ・・・物不足と過剰な焦り・交通機関の乱れ・計画停電・・・ 自然界の一瞬の出来事が、たくさんの人間の命を奪い今までの生活を一変させることになる。 今回の地震の威力は想像を絶する規模だった。 過去の教訓に基づいて作られた10メートルの防波堤を大津波が軽々と乗り越えた。 自然の猛威の前で人間はどうしようもなく無力だ。 「自然から学ぶ」とはどういうことか? 平安時代の陰陽師は、皆既日食などの自然現象をみて、何か良からぬ事が起こる予兆であるととらえた。 自然に対して人間がこれほど無力だと思い知らされたいま、それを非科学的なオカルト的発想だと見下す事はできない。 平安人は天変地異に対してただ恐れ慄いていたわけではなく、異変をしっかりと見据えて自然とともにどう生きてゆくべきかを見直す絶好の機会だと考えていたのだ。 今、あふれかえる情報の中から、何が有用で何が良からぬものなのかを取捨選択して、それを見極めたうえで、同時代の隣人と痛みを共有してコミュニケーションをとらなくてはならない。 衣・食・住・移動手段・ネットワーク・・・すべての点で自己完結できる実力のある友人は、すでに被災地域に赴いて支援活動を開始している。 いま、できる事は何か? Imagine・・・想像してごらん・・・とジョン・レノンは歌った。 「何かできることがあったら言って下さい・・・」という発想ではなく、何をすればいいのかを想像して実行しなければならない。 いま、自分がしなければならない事は何か? それは何より自分らしさを失わないで、自分自身の生き方について考えること。 なるべく今まででのペースを乱さずに落ち着いて日々を過ごすこと。 それでも、後戻りはできない。 日本には、かつて幾度もどん底から這い上がった経験がある。 これまで厳しい復興をやり遂げた先輩達を見習って、次の時代を切開いてゆく覚悟を持とう。 2011年 01月 20日
![]() 先月(すでに昨年・・・)、大学の恩師である麻生三郎先生の回顧展を見た。 海外ではアニメ文化などを基点とした日本美術がクールジャパンと言われて好評を博し、国内にあってもとかくきれいで可愛い作品がもてはやされる感のある今の美術界にあって、すでに没後10年になる麻生三郎のような、どす黒く、重苦しい絵が今の時代にどのように写るのか? 30年前、僕自身が大学時代、自分の師でありながら麻生三郎という絵描きはなぜそんなにも暗くて難解な絵を描いているのか・・・凄い絵だとはわかっても正直はっきりとは理解できなかった。 その頃、僕らが憧れていた絵描きと言えば、山口薫・香月泰男・松本俊介・・・厳しい造形のなかに人間性や叙情を追求した仕事には、それぞれ背負ってきた個人としての想いと、必ず壮絶な時代の記憶が宿っていた。中でも麻生先生の絵は突出して暗く、甘さを拒絶するような迫力を放っていた。 学校を出てからは自分達の時代を切実に描かなければ・・・と、思って見廻した僕たちの時代は、何か方向性のはっきりしない浮ついた世の中に思えて仕方なかった。 こんな世の中で何を描いたらいいのか・・・? ずっと自問自答しつつすでに30年。僕などにはいまだに時代の方向性や抱えている切実さの全貌はよく見えない。 今回、麻生三郎展を観て、30年前にはあまりよく解らなかった何かが、スカッと見えたように思えた。 ぐちゃぐちゃと暗い画面の向こうに、人間がありのままのたくましい姿で立っている。 会場に並んだ赤黒い絵の具で描かれたネバネバした空間には、よく見ると凛とした人の気配があって、それは時代を超えて生きつづけるまったく今日的な人間の姿なのだと思えて仕方なかった。 「U君、いい絵はねみんな健康的で明るいんだよ・・・」 学生時代、あるとき麻生先生が僕に言った言葉を思い出した。 その時・・・真っ黒な絵を描いているくせにこの先生は何を言ってるんだろう?と思ったけれど、今頃になってその意味がようやく腑に落ちた。 いま、僕たちの時代は何を目指しどこへ向おうとしているのか? 他人事ではない、僕は何を描いたらいいのか? 2010年 11月 20日
![]() 2010年11月19日午前3時 ケビンが死んでしまった。 おそらく今頃は、虹の橋のたもとに着いて旧友たちと再会している事だろう。 (しいたけ・ベニー・シャーリー・ボンスケ・ロイさん・ジャスパー・サンディ・シーラ・・・ケビンがそっちに行ったからヨロシク。) 約15年の間、ケビンはいつでも僕のすぐそばに居た。 どこへでも一緒に連れて行った。 いつでも手を伸ばせば触れることの出来る毛むくじゃらの安堵感。 こちらを見るふたつの大きな瞳が訴える無条件の信用。 誰の事も好きになり、誰からも好かれる犬だった。 “おいしい”と“たのしい”が大好き。 食いしん坊で甘えん坊。 そして、若い頃はかなりの暴れん坊。 たいがいの事は分かっているくせに、気のすすまない事には興味を示さない。 売られたケンカも一度も買う事もなく、大体いつもへらへら笑っていた。 キャンプの夜は焚き火の輪の中に居て、怪しい物音がすると、普段は見せない警戒の表情であたりを威嚇してくれた。 アウトドアでは物怖じしない一人前の頼もしい存在だった。 そして、なによりカヌーが大好きだった。 風と水の流れを鋭敏に楽しむ事ができた。 ケビンはパドルは握らないけれど、カヌーというものの本当の素晴らしさを知っていたと思う。 ケビンの目を通して見ることで、僕の見る風景はいっそうリアルなものになっていた。 当たり前のようにいつも“そこ”に居た存在のあまりの大きさに、居なくなった事をにわかには実感できないけれど、きっと幸せだったはずのケビンの一生に僕は背筋を伸ばしてひとまず別れを告げようと思う。 「おまえは本当にいいヤツだったよ。 さよなら ケビン・・・!」
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